2025/4/12

じつは 「脳はスーパー コンピュータではない」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

じつは

「脳はスーパー

コンピュータではない」

誰もが

「人間にとって

最も重要な臓器」

だと思っている

“脳”の意外な欠点

 
 
 

「いつの日かAIは自我を持ち、

人類を排除するのではないか―」

 

2024年のノーベル物理学賞を受賞した

天才・ヒントンの警告を、

物理学者・田口善弘は真っ向から否定する。

 

理由は単純だ。

人工知能(AI)と人間の知能は

本質的に異なるからである。

 

しかし、そもそも「知能」とは何なのだろうか。

その謎を解くには、

 

「知能」という概念を再定義し、

人間とAIの知能の「違い」を

探求しなくてはならない。

 

 

生成AIをめぐる混沌とした現状を

物理学者が鮮やかに読み解く

 

 

脳内の「カオス」とは

 
 

一方で、脳自体の機能については

物理学者による研究もかなりある。

 

そのうちのいくつかは、

脳の機能が脳というハードからは

独立には機能しえないということを示唆する。

 

 

例えば脳の知性の発生にノイズの

存在が重要であるという指摘を

行った寺前順之介は

「脳と知能の物理学」と題する

講義ノートの中で「脳内の神経細胞や

シナプスが多大なコストを支払ってまで

ランダムな活動を維持し続けるのは、

決して無駄でもなければ不可避でもない。

 

 

本稿の結果は、

このランダムな活動こそが

我々の学習の実体であり、

脳の情報処理の実体であることを

強く示唆している」と主張している。

 

 

もし、この主張が正しいのであれば、

脳というハードとは独立に

古典的記号処理パラダイムに則って、

 

論理演算だけで知能を実現することは

そもそも不可能であることになる。

 

また津田一郎は非線形物理学の立場から、

脳内のカオスが脳の知能の実現にとって

本質的だという立場を述べている

(『カオス的脳観』。

 

 

 

 

 

ここでカオスとは、

微小な誤差が拡大して短時間に決定論的な

運動を破壊してしまうもののことをいう。

 

したがって、

脳内のカオスを外部に取り出して同じ

挙動をさせることは原理的に不可能である。

 

脳内のカオスは、あるとすれば、

脳内のシステムが作り出す独自のものであり、

 

脳から独立にカオスを取り出して

再現することはできないからだ。

 

このような立場も、

知能を脳というハードから独立に分離、

存在しうるという立場に拮抗する。

 

 

また最近は量子計算が脳の機能に

重要だという研究もある

 

 

量子計算は本質的に

「チューリング―ノイマン系列」の

コンピュータでは実行できない。

 

というより「チューリング―ノイマン系列」の

コンピュータでは達成できない

性能を発揮できるからこそ量子計算が

重要視されているのであって、

 

もし、

量子計算が知能の発現に重要であるならば

「チューリング―ノイマン系列」の

コンピュータ上でソフト的に

知能を実現することなどできない、

ということになる。

 

 

脳の意外な弱点

 
 

もし、脳を、

任意のハードウェアで実現できる

論理演算で再現可能な機能を持った

ハードとソフトの結合系と

みなすことができないならば、

 

脳はどのようなものだと思うのが妥当だろうか。

 

 

一つの可能性は車のようにそれ全体で

なにかの機能を実行する機械装置で

あるとみなすことである。

 

車には様々な部品があり、

独自の機能を持ってはいるが、

それらはほとんど単体では機能しない

受動的な部品に過ぎない。

 

脳も様々な区画に分かれて、

機能的な分業を行っていることはわかっているが、

その部分を取り出して

機能させることに成功した例はない。

 

 

これは、脳に限らず、

人間の臓器は一つだけ取り出してそれだけで

動作させるのが難しいという点がある。

 

個々の臓器はあくまで人体の中で

機能するパーツに過ぎないからだ。

 

脳も臓器である以上、

この縛りからは逃れられない。

 

 

 

だが、脳の場合は、

他の臓器以上に、

単独ではその機能を発揮できない。

 

ある程度、

自律的な反応が許されて機能を発揮できる、

心臓や胃や小腸などと比べてもその傾向は顕著だ。

 

 

実際、

身体的人工知能論の立場は、

脳の外部の器官との

連携という意味ではあっても、

 

脳がそれ自身だけで機能しえないという

立場としては同じ立場に立っている

と考えることも可能だ。

 

 

 

<参考:田口 善弘>