2025/4/19

ルーティンではなく、 “所作”として暮らす 禅に学ぶ静けさの時間

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ルーティンではなく、

“所作”として暮らす

禅に学ぶ静けさの時間

 
 
 
 
 

こんにちは、芯風(しんぷう)です。


会社員として働きながら、

在宅で禅の修行を続けている身として、

 


日常の中で気づいたことを、

こうして少しずつ言葉にしています。

 

 

今回のテーマは「所作(しょさ)」についてです。

 

 

忙しい毎日の中で、

私たちは無数の“ルーティン”をこなしています。

 


起きる、食べる、着替える、

メールを返す、掃除をする……。

 


繰り返される動作のなかで、時折ふと、


「自分は今、

何をしているのだろう?」と感じることがあります。

 

 

禅の修行と出会ってから、

私は“同じ動き”でも、


そこに込める「意識の持ち方」が

大きな違いを生むことを知りました。

 

 

 

所作とは、

“いまここ”を生きるための動作

 
 

禅の修行では、

「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」

 


歩くこと、立つこと、坐ること、寝ること、


そのすべてが修行であると説かれています。

 

 

つまり、坐禅だけが修行なのではなく、


日常の何気ない動作すべてが

「仏道を歩む時間」なのだと。

 

 

その中でも「所作」は、

禅でとても大切にされる概念です。

 


所作とは、「ただの動き」ではありません。


意識と身体をひとつにする動きのことです。

 

 

 

「所作を整えると、

心も整ってくるよ」

 
 

これは、あるとき住職から言われた言葉です。


坐禅の作法を教わっていたときのことでした。

 

私がぎこちない手つきで合掌し、

坐蒲(ざふ)に腰を下ろすと、


住職は静かに近づいてきて、こう言いました。

 

 

「所作を整えると、心も整ってくるよ。

まずは、

動きを大切にしてごらん」

 

 

当時の私は、

正直あまりピンときていませんでした。

 


「所作」とは何か、

「整える」とはどういうことか。

 

 


頭ではわかるような気がするけれど、

 


どこか“型にはめるようなもの”

にも感じてしまったのです。

 

 

「所作が整っていれば、

心もちゃんとしているように見える」


そんなふうに、

どこか“外から見られる修行”として

受け止めていたのかもしれません。

 

 

 

所作は

「意識をひとつに戻す道」

 
 

でも、その後の日々の暮らしの中で、


住職の言葉が少しずつ、

自分の中で形を変えて響いてくるようになりました。

 

 

茶碗を洗っているとき、


パソコンを開いたとき、


食後のコップを流しに運ぶとき

 

 

どれも毎日の“ルーティン”であるはずなのに、


心ここにあらずで手だけが動いていることに

気づく瞬間が増えてきました。

 

 

「今、自分はどこにいるんだろう?」と

感じるその違和感に、


私はようやく気づくようになったのです。

 

 

ああ、きっと所作とは、

心がどこかに飛んでいったときに、


もう一度“いまここ

”に戻ってくるための動きなのだ。

 

 

そう思い至ったとき、

私は住職の言葉の意味をようやく

理解し始めた気がしました。

 


それからは、

ひとつの動作に“心を添える”ことが、

私の中の新しい修行となりました。

 

 

 

私が暮らしの中で

大切にしている「所作」

 
 

ここでは、私が意識して続けている、

日常の“所作”をご紹介します。

 


どれも、禅の修行に根ざしたごく小さな動きですが、


そのひとつひとつが、

自分の心の状態を映してくれる鏡のような存在です。

 

 

 

◾️ 茶碗を洗うとき、

布巾の音に耳を澄ます

 

洗うこと自体は日常のルーティンですが、


私は、茶碗を拭くときの

“布と陶器がこすれる音”に

意識を向けるようにしています。

 

 

その音が耳に入ってくると、


「今、自分はここにいる」という感覚が、

そっと戻ってきます。

 

 

禅では「看脚下(かんきゃっか)」

足元を見よ、という教えがあります。

 


それは、いま自分がしていることを、

ちゃんと見よという意味でもあるのです。

 

 

 

◾️ 呼吸に合わせて、湯を注ぐ

 
 

朝、白湯を飲むとき。

 


湯を注ぐ瞬間に、呼吸を合わせます。


「吸って──吐いて──」のリズムでポットを傾けると、


不思議と心のせわしなさがほどけていくのです。

 

 

注ぎ終わったら、ほんの少し湯気を眺めます。


それだけで、その日が静かに始まる気がします。

 

 

 

◾️ 書類を揃えるときに、手を整える

 
 

仕事で資料をまとめるとき、


私は一度、両手を机の上に置いてから、

丁寧に紙を揃えます。

 

 

「自分が焦っていないか」


「急ぎすぎて言葉が雑になっていないか」

 

その一瞬が、

私にとって“整える儀式”のようなものです。

 

 

禅の修行では「調身・調息・調心

(ちょうしん・ちょうそく・ちょうしん)」


身体・呼吸・心を整えることが、

基本中の基本とされています。

 

 

この“手を整える”所作は、

私にとってそれらを同時に呼び戻す、

小さな合図です。

 

 

 

所作は、

自分を“取り戻す”ための動き

 
 

所作を意識するようになってから、


私は「自分を見失わない時間」が

少し増えたように感じています。

 

 

もちろん、

毎回完璧に意識できているわけではありません。


ただ手を動かしてしまっている日もあれば、


焦りに流されて、

雑になってしまう日もあります。

 

 

でも、そういうときこそ思うのです。

 

 

「所作」とは、

何か特別な“丁寧さ”を装うことではなく、


いまの自分に気づく動きそのもの
なのだと。

 

 

 

結び──あなたの中にもきっと、

所作はある

 
 

ルーティンを否定する必要はありません。


日々の繰り返しがあるからこそ、

私たちの暮らしは支えられています。

 

でも、もしその中で、


ふと「立ち止まりたい」と感じる瞬間があったなら、

 


ぜひ、

自分の動作のひとつを

“所作”として味わってみてください。

 

  • 茶碗を拭く

  • 靴をそろえる

  • ペンを置く

 

何でもいいのです。


その動きに心を添えることで、


きっと少し、

あなたの中に“静けさ”が宿ってくるはずです。

 

 

禅とは、日常のひとつひとつに、

問いと気づきを重ねていく生き方。

 

そう思いながら、私も今日、

また茶碗をひとつ拭いてみようと思います。

 

 

<参考:芯風・合掌>