2024年。
日本人にとっては年明けといえば初詣ですよね。
地元の神社へ参拝される方もいれば、
一年の最初ということで伊勢神宮や出雲大社へ参拝する、
という方もいるでしょう。
しかし日本の二大神社であることは
知っていても意外と知らないことも多い。
対照的ともいえる日本の二大神社
全国に約8万社存在するといわれる
日本の神社のなかでも、
三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮と、
島根県出雲市に鎮座する出雲大社は、
その代表格として挙げられる。
伊勢神宮は「お伊勢さん」の愛称で親しまれるが、
成り立ちとしては古代日本に君臨した
ヤマト政権が奉じた。
皇祖神(こうそしん)アマテラス大神(おおみかみ)
を祀(まつ)るがゆえに最も格式の高い神社とされ、
内宮と外宮に分かれる。
五十鈴川の川上に鎮座する内宮は
アマテラス大神を祀り、
山田原に鎮座する外宮は食物の神トヨウケ大神を祀る。
両宮にはそれぞれ別宮、摂社、末社、
所管社など125の宮社が付属しており、
それらの総称が伊勢神宮でもある。
その起源は、
天孫(てんそん)降臨の際にアマテラス大神が
ニニギ命(ににぎのみこと)に授けた鏡を、
長い巡幸ののちに伊勢に祀ったことに由来する。
その後、
雄略天皇の御世(みよ)にアマテラス大神の神託により、
食物の神、トヨウケ大神が外宮に鎮座した。
また、
摂社と末社の多くは、
内宮鎮座以前から伊勢の集落ごとに
祀られてきた神々が、
神宮の鎮座に伴って傘下に入ったものという。
一方、
神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡や
加茂岩倉遺跡の発掘調査で大量の青銅器が発見され、
近年、
祭祀(さいし)王国として注目を集めている
島根県東部の出雲地方。
この出雲を象徴する神社が、
オオクニヌシ神の鎮座する出雲大社で、
「だいこくさま」の愛称で親しまれる。
かつては杵築大社(きずきのおおやしろ)と呼ばれ、
毎年10月には全国の神々がこの大社に
参集すると言い伝えられる
(神在月⇔その他地域では神無月)など、
格式の高さで知られている。
記・紀(『古事記(こじき)』
『日本書紀(にほんしょき)』)
神話にも登場する。
国土を作ったオオクニヌシが、
高天原(たかまのはら)の神々に
国土を献上する代償として、
自分のために天神のような宮殿の築造を求めた。
それが出雲大社だという。
そして、
オオクニヌシ神の祭祀を命じられた
アメノホヒの子孫である出雲国造家(こくそうけ)が、
代々奉祀(ほうし)している。
このように、
日本の二大神社であると同時に、
ヤマト政権が奉じた伊勢神宮と出雲の地元勢力が
奉じた出雲大社というように対照的な
特徴と性格をもっている。
建築様式にも対照的な面が表れる
出雲大社と伊勢神宮の社殿は、
一定期間ごとに忠実に建て替えられる遷宮(せんぐう)
により最古の社殿様式が脈々と伝えられ、
今日に至っている。
伊勢神宮の構造は「神明造(しんめいづくり)」、
出雲大社の方は「大社造(たいしゃづくり)」と
称されるそれぞれ異なる建築様式で、
両社本殿には共通して神の依り代と伝わる
心御柱(しんのみはしら)がある。
ふたつの様式はともに屋根の頂点にある
水平材の棟(むね)と軒(のき)の長さが同じで、
両側に屋根が半開き状に広がった
切妻造(きりつまづくり)の構造を持つ。
屋根が平行に見える方を平(ひら)、
三角形に見える方を妻(つま)といい、
大社造と神明造の相違点はこの切妻造の向きにある。
神明造は神殿の平の部分が正面になる
「平入(ひらい) り」構造であり、
大社造は屋根の三角の面が正面になる
「妻入(つまい) り」構造になっているのが特徴だ。
このほかにも細かい違いはいくつかあるが、
まずは神明造から見てみよう。
平入りの神明造の屋根は、
反りを持たず平面になっている。
破風(はふ)が屋根を貫いた千木(ちぎ)が伸び、
棟上に堅魚木(かつおぎ)が並ぶ。
礎石(そせき)を地下に埋め、
その上に柱を建てる掘っ立て式で、
太い棟持柱(むなもちばしら)が棟木を支え、
中心の心御柱は、
床の下から地表下に埋められている。
一方、
妻入りの大社造は屋根に軽い反りを持ち、
柱は正方形平面に9本の柱が3本ずつ建つ。
中心にある太い心御柱は棟まで
しっかり通っているのが特徴である。
日本人の源流をたどる
二大聖地の位置づけとは?
さて、これ以外にもさまざまな面で
対照性を持つ伊勢神宮と出雲大社であるが、
古代史の担い手となった大和から見た場合、
どのような位置づけにあったのだろうか。
まず、出雲大社と大和の関係については、
出雲の神が大和に禍(わざわい)
をもたらすなどして大和の人々に恐れられる
存在であった点が見逃せない。
これに関連して、
出雲大社の注連縄(しめなわ)が
逆向きにかけられていることを指摘し、
これはオオクニヌシ神を封じ込める意を持つもので、
ヤマト政権は出雲を征服したものの、
恐れ続けた証であるという人もいる。
西郷信綱氏は、
大和にとっての出雲とは、
東の伊勢に対置する暗黒の世界であると唱えた。
太陽の沈む地とみなされたのだろう。
『日本書紀』において、
オオクニヌシ神を祀る杵築大社(=出雲大社)は
天日隅宮(あめのひすみのみや)と記され、
これは太陽の沈む聖地に祀られる宮という意味を持つ。
また、これまで見てきたように古代人が
西北に黄泉国(よみのくに=死者の国)があると
考えていたことを踏まえ、
大和は西北にあたる出雲に黄泉国が
あると考えていたのではないだろうか。
ヤマト政権にとって重要な意味を
持っていた“出雲の平定”
一方、大和の政治的な権威に対し、
宗教的な霊力を持つ世界として出雲を想定したと
唱えたのが松前健氏である。
たしかに昨今、
出雲から銅鐸などが大量に発見されている
ことを考えれば、
出雲には一大宗教勢力が築かれていた
可能性も否定できない。
この巨大な宗教勢力、
文化を保持していた出雲の平定は大和の念願であり、
それをなしえたとき、
ヤマト政権の王権が確立したと
考えられていたという意見もある。
そんな出雲を大和の政権が重んじていたことは
様々な点からうかがえる。
ヤマト政権は、
出雲のオオクニヌシ神の分身、
オオモノヌシ神を三輪山(みわやま)に祀った。
出雲を平定したのちも、
出雲固有の祭祀を重んじたともいわれ、
出雲国造(くにのみやつこ)就任の際の、
火継(ひつぎ)式にそれをみることが
できるともいわれる。
そのほかにもたとえば『古事記』では、
ヤマタノオロチ伝説や国譲りなど、
出雲に関する神話が数多く語られる
(『日本書紀』ではあまり見当たらない)。
これについて三浦佑之氏は、
天皇大権を説く『古事記』が出雲を
ヤマト政権の巨大な対立者とみなし、
それを打ち倒すことでゆるぎのないヤマト政権が
成立したことを語るため、
出雲の神々の物語が必要だったとしている。
一方、出雲人にとっての大和とはどのような
位置づけだったのだろうか。
『出雲国風土記』を見てみると、
天皇に関する伝承がほとんどなく、
在地性の強さがいわれている。
さらに、三浦氏は出雲にとって
朝廷とは自分たちの上に立ち、
自分たちを支配する国という認識を
持っていたとも指摘している。
実際、『日本書紀』の一書には
オオクニヌシの国譲りの記事のなかで、
「政治は天孫に、
神事はオオナモチ命(オオクニヌシ神)が
司る」と分担を示している。
“機能体制”の視点から見た大和・
伊勢・出雲の関係性
一方、伊勢と出雲の関係に関しては、
様々な視点から、
この関係性を捉えようとした論議がなされてきた。
古くからいわれてきたのは、
アマテラス大神は、
高天原から移動して伊勢にたどりついた
神であるのに対し、
出雲の神オオクニヌシ神はもともと出雲の神であり、
地の神であるという対称の構図である。
確かに伊勢神宮は高天原の神、
出雲は国津神(くにつかみ)の統合の象徴でもある。
いわば天津神(あまつかみ)の主神
アマテラス大神と国津神の主神オオクニヌシ神は
一対として考えられる神でもあった。
また、ヤマト政権を中心として、
三機能の分担という説を唱えたのが
大林太良氏である。
記・紀神話には出雲大社、
伊勢神宮、そして石上(いそのかみ)神宮にのみ
「神宮」の文字を使っているが、
この3つは大和の三輪山の石上神宮に対し、
伊勢神宮は東南、出雲大社は西北に位置している。
そして、アマテラス大神を王の職分である
主権神にすえ、
軍事的な集団が祀る石上の軍事、
出雲の豊穣との三機能体制で
考えられていたという。
いわばこの三神は一体として考えられており、
主権、軍事、豊穣の神がうまく働いてこそ、
国家と万民の安寧(あんねい)をもたらしてくれると
考えられていたというのである。
<参考:瀧音能之>
1喧嘩はするな、
2意地悪はするな、
3過去をくよくよするな、
4先を見通して暮らせよ、
5困っている人を助けよ、
あなたなら出来ます応援しています
RupanPart-1 by サロンデイレクター