
よき友を得ることは、
聖なる道のすべてらしい
お釈迦様の弟子のひとり、
アーナンダは、25年間、
お釈迦様の付き人をしていました。
ある日、アーナンダは、
お釈迦様にこう尋ねます。
「お師匠様、よき友に出会うことは、
聖なる道の半ばまで来たと思って、
いいのではないでしょうか?」
私の考えでは、「聖なる道」というのは、
「心に曇りや苦しみがなく、
明るく穏やかに生きて行くこと」
という意味ではなかったかと思います。
アーナンダの問いかけに、
お釈迦様は答えました。
「アーナンダよ、よき友を得ることは、
聖なる道の半ばではない。
聖なる道のすべてである」
お釈迦様は、こう説明したそうです。
「私(お釈迦様)を友にすることによって、
人は老いる身でありながら老いを恐れずにすみ、
病むこともある身でありながら病むことを恐れずにすむ。
必ず死すべき身でありながら、
死の恐れから逃れることができる。
よき友を持つことは、
幸せに生きる絶対条件なのだ」
師匠を「友」と呼ぶことに異論もありそうですが、
お釈迦様の言う「友」とは、
遊び相手や遊び仲間のことではないと思います。
本来の「友」とは、
遊び相手とか遊び仲間というようなものではなくて、
人生上の悩み・苦しみ・苦悩・煩悩を少しでも
軽減してくれるような「気づき」を与えてくれる人のようです。
それは同時に、
自分もそういう存在になることが
「よき友」と言われる条件ということでもあります。
自分も「よき友」と呼ばれるような存在になって、
互いに教え合い、
学びや気づきを知らせ合うことが、
「友」という関係なのかもしれません。
「友」という存在の本質を理解するには、
「『幸せ』とは何か」を正しく認識する必要がありそうです。
「幸せ」とは、何かを手に入れることでも、
思い通りにすることでもなく、
「今の自分が『幸せ』の中に
存在していること」を知ることだからです。
「得ること」や「手に入れること」を求めている限り、
本当の「幸せ」はやってこない気がします。
なぜなら、
思い通りに得られるものなど、
ほとんどないからです。
「こんなことを感じた」「こんなふうに思った」
ということを語り合うことで、
重荷を減らし、ラクになり、
生きることが楽しくなる。そういう仲間こそが、
お釈迦様の言う「友」だと私は解釈しています。
私が思うに、
「友」と「師匠」の違いは、
「一方通行」と「相互通行」の差ではないでしょうか。
お互いに、「こんなことがわかった」
「こんなことを知った」と教え合い、
語り合うのが「友」の本質だと思います。
おそらくお釈迦様も、
アーナンダの何気ないひと言から
多くのことに気づき、
学んでいたのではないでしょうか。
その意味でアーナンダは、
お釈迦様にとって真の友だったのかもしれません。