「分かりました。次は、頑張ります」 診察室の裏で、 私の目をまっすぐに見て、彼女はそう言った。 その表情は真剣そのもので、 言葉に嘘はない。心の底から、 そう思っているのが痛いほど伝わってくる。 しかし、私は知っている。 この「頑張ります」という言葉こそが、 時に、最も危険なサインになり得ることを。 これは、かつての私のように、 そして、今の誠実で、 真面目なあなたのように、 「頑張りたいのに、なぜか動けない」 「努力しているのに、 同じミスを繰り返してしまう」という、 深く、苦しい沼の中でもがいている、 プロフェッショナルを目指すすべての若者へ 向けて書く、 魂の処方箋です。 「頭」と「心」の牢獄 私の職場にも、 そんな若手スタッフがいます。 彼女は、何度も何度も、 同じようなミスを繰り返してしまう。 そのたびに、 涙を浮かべて反省し、「次は必ず」と誓う。 しかし、 いざアクションを起こす段になると、 その一歩が、どうしても踏み出せない。 不安から、 過剰な確認を繰り返す。 私が「Aだ」と指し示せば、 彼女はBの可能性を憂い、 私が「Bでいこう」と決めれば、 今度はAのリスクが気になってしまう。 その振る舞いそのものが、 私と彼女の間に、 一つの残酷な事実を突きつけます。 それは、 言葉にされない、 しかしあまりにも明確な「相互不信」の表明です。 「あなたのその態度は、 院長である私を信じていないという証だ。 そしてその結果、 私も、 あなたを信じて仕事を任せることができない」と。 これは、決して、 やる気がないわけではない。 むしろ、逆です。 真面目すぎるほど真面目で、 「失敗したくない」 「迷惑をかけたくない」という 「心(感情)」が強すぎるあまり、 「頭(思考)」が不安という名の ウイルスにハックされ、 完全な機能不全に陥っているのです。 魂は、いかにして鍛えられるのか では、どうすれば、 この牢獄から抜け出せるのか。 ここから話すことは、 今の時代には、 少し厳しいと聞こえるかもしれません。 「働きすぎは良くない」という正論が叫ばれる中で 、賛否両論があることも覚悟の上で、 私の信じる真実を話します。 私自身、 この身一つで、 幾度となく経験してきました。 諦めるとか、諦めないとか、 そんな甘い次元ではない。 「やるしかない」と追い込まれ、 有無を言わさぬ状況で、どれだけハードでも、 その現場を乗り切っていく。 その白熱した渦の中でこそ、 心や魂は、初めて、 そして劇的に鍛え上げられるのだという事実を。 私は、外科医を志した時、 まず一つのことだけを、己に課しました。 「先輩の言うこと、指示に、まず従う」 そこに、自分の好き嫌いや、 良し悪しの判断を挟まない。 相手が何を望んでいるのかを正確に汲み取り、 きめ細かく実行する。ただ、 それだけでした。 なぜなら、 本当の仕事は、 教科書の中にはないからです。 物事は、 決して0か1かのデジタルでは動いていない。 そこには常に、 0と1の間の、無限に近い、 きめ細かなアナログの状況が存在します。 ちょっとしたチューニング、 肌感覚、言葉のトーン、タイミング。 それは、 美味しいラーメンを出すタイミングと同じです。 ほんの数秒遅れただけで、 麺は伸びきって、すべてが台無しになる。 報告のタイミング、プレゼンの言葉遣い、 その場の空気感。 この「肌感覚」だけは、 本を何冊読んでも、決して身につかない。 それは、現場で、目で見て、耳で聞いて、 匂いで感じ、 そして、自分の身体を使って失敗し、 修正するという、 泥臭い反復練習の中でしか、 体得できないのです。 感謝すべき、理不尽さ 正直に言えば、当時の先輩方は、 かなり厳しく、時に理不尽でさえありました。 しかし、その環境に身を置いたからこそ、 今の私がある。 そのおかげで、考えてばかりで動けないという、 最も不幸な状況に陥らずに済んだのです。 私は、まず現場で、 五感のすべてを使って学びました。 ベッドサイドでは、 患者さんの身体から出る様々な管、 皮膚の状態、ドレーンから排出される体液の色、 そしてそこから漂う匂いで、 体内でどんな問題が起きているのか、 どんな菌が悪さをしているのかを感じ取る。 手術室では、 先輩と共に流れに入りながらも、 思った通りに安定した視野を確保できず、 何度も、何度も叱られながら、 自分の指の筋肉、体の使い方を叩き込む。 そうして、一つの手術が持つ独特の 流れと勢いの中で、 いかにして完成へと向かうのかを、 日々目の当たりにしていました。 若い頃は、 本当に大変な世界に足を踏み入れてしまったと、 呆然としながらやっていたことを思い出します。 そうやって身体で覚えた後、 5年、10年、20年と経って から改めて書物を開いた時、 「ああ、あの時の経験は、 こういう理論で裏付けられていたのか」と、 本当の意味で血肉になる学びを、 幾度となく経験してきたのです。 先に頭でっかちにならず、 まず現場で、 身体と心を鍛えることから教わったこと。 今となっては、感謝しかありません。 【本日の、人生の処方箋】 不安で動けない時、 あなたは「頭」と「心」の小さな牢獄にいる。 一度、そこから意識を外し
、自らに問うのです。 「そもそも、私の職業の魂は、 この現場で、何をしろと叫んでいるのか?」と。 その声は、 安楽な書斎からは聞こえてこない。 それは、理不尽で、 過酷な現場の最前線で、 身体を張り、 失敗を重ねる中でしか聞こえてこない。 その声が聞こえた時、 あなたの腹は座る。 好き嫌いや不安といった個人的な感情は、 プロフェッショナルとしての偉大な使命の前に、 道を譲る。 あなたは、ただ、 やるべきことをやるだけだ。
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