2025/12/31

脳内では常時五人の生きたい 自己が巡りめぐっている。 「だた生きていたい」、 「たくましく生きたい」、 「うまく生きたい」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脳内では常時五人の生きたい

自己が巡りめぐっている。

「だた生きていたい」、

「たくましく生きたい」、

「うまく生きたい」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
自己中心的な価値観に揺れた若き日々。
 
名声や欲望に駆られた時代を経て、
 
理学療法士である著者は問い続ける――
 
 
「本当の人生の所依とは何か」
 
壮年期から晩年に至る
 
精神的転換の軌跡をたどりながら、
 
「生きること」の本質に深く鋭く迫る一冊。
 
 
 
 

はじめに

 

二つ目は、

生命論の探求によって

根源的生命観が問われたことである。

 

生命科学の進歩によってヒトの

ゲノム解析が行われ、

生命とは何か、ヒトとは何か、

などの問いがなされている。

 

 

また生命体の基本でもある細胞の

構造や機能が分子レベルまで解明され、

 

生命のしくみやはたらきがもつ美しさや奥深さは、

自然だけでは説明し難いものがある。

 

 

生命の知的設計を含めて、

もはや不思議としか言いようがない

生命論の探求によって問われた。

 

 

そこでは、

人間的なものを超越した世界。

 

それこそが絶対無限とされる

とんでもない世界であること。

 

 

極みなきいのちとひかりを被る道。

絶対の真理への道。

 

 

その道を歩み出すことによって、

真実に生きることの大切さが信知された。

 

そして、

被教育者に学ぶ絶対無限の真理こそが、

我が人生の帰趨であることを教えられたのである。

 

「人生の究極的立脚点は、

『有限』の世界に存在しているのではなく、

『無限』の世界にしかないのである」

 

 

阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』<sup>
</sup>

 

 

第一章    自己の真実性

 
 

自己には真実はない、それが自己の真実性である。

自己とは脳によって生み出されるこころのはたらきを言う。

そのこころには実体はなく、自己は幻のようなものなのだ。

自己は環境によって揺れ動くため、相対有限と言わざるを得ない。

そこには絶対の真実性はない。

ギリシア思想に、「汝自身を知れ」と、問う有名な格言がある。

 

 

また、

『無量寿経』<sup>(2)</sup>では、

「汝自当知(なんじみずからまさに知るべし)」

と説かれている。

 

 

 

いずれも自分の姿や自己のあり様から

自己の真実性を見据えることの

必要性を示唆している。

 

 

自己とは何か?

 

 

自己への問いは人間存在の真実性を問う

根源的な要求であると言っても過言ではない。

 

 

自己とはからだではなく、

脳が生み出すこころの

はたらきによって賦与される。

 

 

幻のように不可得なもので、

 

私、吾、我、自分、自我と

あらわされる言葉でもあるが、

実体はない。

 

 

したがって、

自己は環境によって揺れ動く。

 

 

その本体は、

理知的存在である反面、

本能にも依存している。

 

 

大脳辺縁系や間脳から中脳にかけての

本能的行動

(種々の食欲・性欲・睡眠などの欲望、攻撃性、

恐怖と憤怒と柔和、母性反応、動機づけなど)と

情動(煩悩ともいわれる)は

脳内制御回路によってコントロールされている。

 

その脱抑制が起これば

容易に解放されてしまうのだ。

 

 

脱抑制による解放現象が起きても、

脳は可塑性(plasticity)に富んでいて、

統制能力を再獲得できる可能性が秘められている。

 

それは、

脳内ニューラルネットワーク(神経回路網)に

新たなシナプスを形成するはたらきがあるからだ。

 

 

したがって、脳はいいかげんで、

まちがえることもあるが、

それを省察する能力も持ち合わせているのであろう。

 

 

そのために、

 

脳内では常時五人の生きたい自己が巡りめぐっている。

ただ生きていたい、

たくましく生きたい、

うまく生きたい、

よく生きたい、

よりよく生きたい、

 

 

自己はいつ何時でもおろかな

ホモ・スツルツス(シャルル・リシェ『人間論』)<sup>(3)</sup>に

変身する頼りないものなのだ。

 

 

親鸞聖人が教える

「罪悪深重煩悩熾盛」なのである。

 

 

 

自己は相対有限であり、

そこに相対的な真実性はあるものの、

絶対の真実性はないと言わざるを得ない。

 

 

実に当てにはならないものなのだ。

 

その一方では、

豊かな創造性を生み出すはたらきが備わっている。

 

自己は自分で創り上げるだけではない。

 

賦与されるものでもあることを知れば、

自己の真実性は究明されることがわかる。

 

それは根源的自己との対話である。

 

自己には絶対の真実性がないことの真実が

究明されることによって、

人間である生き方から

人間であるべき生き方へと転換される。

 

 

それを被教育者から学ぶのだった。

 

第一節 自己とは何か

 

第一項 自己の所在

 

自己には所在が在るかのようでなく、

ないかのようで在る。流動的で矛盾している。

 

 

自己とは何か? 

よくわからないというのが本当のところだ。

 

 

自己はこころのはたらきによって

生ずる幻のようなものだとすれば所在はない。

 

 

こころのはたらきには、

意識・活力・欲動などに加え、

記憶・言語・計算などがある。

 

 

これらのはたらきが、

統合されて自己として

意識されるようになる。

 

 

<参考:丸田和夫氏>