孤独と不安に耐える
精神力を持つ
かくお膳立てをして待っているのだが、
これを食べるか否かは
箸を取る人のいかんにあるので、
御馳走の献立をした上に、
それを養ってやるほど先輩や
世の中というものは暇ではない。
このようにごちそうを用意して待っているのだが、
これを食べるのか食べないのかは、
箸を持っている人の本人次第である。
ごちそうをつくったうえに、
それを食わせてやるほど、
先人や世の中は暇ではないのだ。
経営者は、
最終決定をする立場だ。時には、
従業員など、
周囲と利害相反の関係になることもある。
また、その立場や情報の違いから、
他の人と違った業務を行わなければならない。
その結果、孤立することもある。
それに、
経営者には、常に不安が付きまとう。
正解がないなか、決断を迫られるし、お金がない、
所属がない、
保障されていない状況は誰でも不安で怖いものだ。
そんな状況でも決断しなければならない。
しかし、だからといって、
経営は待ってくれない。
こういった孤独で不安な状況でも
突き進まなければならないのだ。
だから、
経営者には、このような孤独と不安のなかでも、
決断し続けなければならない。
経営者には、
やり続けられる強い精神力が求められる。
強い精神力こそ、経営者にとって最大の資質であり、
武器なのである。
どんな状況であろうとも決断できる
強い精神力を持つのだ。
しかし、
現在の自分の精神力が弱いと嘆く必要はない。
多少失敗しても、生き残ってさえいれば、
経営をしていくうちに、
自然と強い精神力が身に付くものだ。
だから、どんな状況に置かれても、
続けることが肝心だ。
続けていけばなんとかなる。
渋沢栄一はこう考えた
渋沢の実業家としての本格的な歩みは、
第一国立銀行の総監督から始まった。
渋沢は、
そこで部下一人ひとりに
銀行業務を丁寧に教えていく。
渋沢は、
銀行内に銀行業務を教える部署を設け、
銀行員に銀行行政から簿記にわたる
銀行業務の基礎を教えた。
何しろ、
当時は銀行の役割と業務について、
銀行員もわかっていないのだから、
これは大変な苦労であった。
渋沢は、
「銀行は大きな川に似ている」と考えていた。
「大きな川が一滴一滴集めて大きな流れとなり、
そして大河となる。
銀行も蔵のなかに隠れている金を集め、
工業や商業、農業や貿易を発展させる」という意味だ。
そんな渋沢の思いはだんだん浸透し、
第一国立銀行は徐々に
銀行としての体をなしていく。
第一国立銀行は、
6ヵ月後には増資をするほど発展した。
晩年になって、渋沢は、
「最初は孤独と不安でのスタートだが、
新たな会社はそのようなものである。
そこで未来を信じて耐えるのも
経営者の役割」といっている。
信号が全部青になるまで待つな
そも人生の運というものは、
十中の一、二、あるいは予定があるかもしれぬ。
しかしながらたとえこれが予定なりと見た所が、
自ら努力して運なるものを開拓せねば、
決してこれを把持することは不可能である。
そもそも人生における運というものは、
十中の一か二は決まっているかもしれない。
しかしそれが定めと決めつけず、
努力して運命を切り拓かなければ、
決してこれを打ち破ることはできない。
成功する経営者における共通点は、
実行力があることだ。
経営者は実際に行動し、
成果を出してこそ評価される。
事業の成功を見て、
あれは俺が思いついたものだとか、
あんなことは誰でも思いつく、
という人もいるが、
実際に実行してはいない。
本当に思いついたかは別としても、
決断し、行動したからこそ、
その起業家はそこまで賞賛されるのだ。
「信号が全部青になるまで待つな」という格言がある。
先の信号が赤であったとしても、
目の前の信号が青であれば進み始め、
進みながら先の信号が変わるのを待てばよい、
という意味だ。
経営であれば、
進んでいる間に先の信号を青にする努力もできる。
それに、
水面に石を投げ入れれば波紋が起こるように、
行動することで、局面が変わり、
道は拓けるかもしれない。
経営は、
行動することで結果を出すことを志向する。
結果を恐れて待つのではなく、
まずは動いてみるのだ。
そして、
刻一刻と変化する経営環境を見極め、
時を味方に臨機応変に挑むことが肝心なのだ。
人生のうち、10%か20%は、もしかしたら、
すでに決まっているのかもしれない。
でも、
自ら努力してこれを打ち破ろうとしなければ、
決して道は拓かれない。
渋沢栄一はこう考えた
渋沢が起業を手がけた事業は500にも及ぶ。
もちろん渋沢は、
道徳経済合一説のチェックや、
数値的な見込み、
経営者の意気込みなどを見て
慎重に判断していたのだが、
自分が行う事業については、
素早く行動した。
そのため思わぬ失敗も数多くあった。
明治34(1901)年、
還暦を過ぎた渋沢は東京の飛鳥山に住居を移す。
だが、
飛鳥山のすぐ近くの王子停車場には、
渋沢たちが作った製紙会社があった。
後の王子製紙だが、
思わぬ生産拡大により工場には
巨大な煙突が立ち並ぶようになっていった。
また、
その近くにあった停車場からは、
製紙工場で作り出される
製品を運ぶ蒸気機関車が頻繁に走り、
黒い煙をもくもくと出して、
飛鳥山まで流れていった。
庭園の木々は枯れ、
家にも煤が入った。
しかし渋沢は、
「わしが骨を折って立てた会社なのだから
文句などいえまい」と終始笑っていたという。
事業を起こすときは、
すべてが予想通りになるとか、
あらゆる事態を想定しつくすことなど無理だ。
さまざまなマイナスの
副産物を生むこともあるだろう。
しかし「安全」が確信できるまで
待とうとすれば、
結局始めることはできない。
<参考:折原浩>